この場所に入る手前に新しく建った家がある。施工主は女。最近は施工主が皆女の名前になっている。こんな家を建てられる女は、この町の出身でも、この町で退職した人でもない。田舎町では女はパートと決まってる、じゃなきゃ教師か市役所職員。実際、子供の自転車を片付けるのを見ると、女は妙に背が高く、血色もなく、のっぺりした顔立ち、そこまで油をこってり塗りたくらなくても。それにしても自転車が4台?何時もカーテンを開けて子供は4人ですよ、中学生か高校生ですよと見せている、見せるつもりでなければ、通りに面した居間らしき部屋のレースのカーテンを開ける人はいない。
私はその家の工法をじっと毎日見ていた。何を守りたくて、何を推進したくてこんな斬新な工法を用いて砂の上に好んで家を何としてでも建てようとするのかと思っていた、が、昨日歩いて買い物に出かけて行く時、ここに家を建てたがる人の現状が分かった。なんだか私の方が幸せか?幸せが不幸の上に、倒れ掛かって来たのか?それでも人は幸せですと言うものなのか?
現状は八方塞がり、不幸は今日もあり明日も訪れる。毎日毎日これが現状ですと言っている内に、去年と今年の大きな違いに気づいても、今この一瞬の現状に対応する、それが力を持つ国のやり方だし、見せかけの力を精一杯見せるしかない国民や準国民のぎりぎりの選択だ。現状に対応することは何一つ対応しないのと同じ。5
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