さよならが

父は戦時中を中国の戦地で、母は京都でと別々に生き、戦後結婚した。父と母は親戚、父はもちろん30を超えていた。母は若かった。二人共戦時中の話はしなかった。私は子供で、その上アメリカ的教育を受けている最中だから、戦中の日本を擁護する立場とその思いなど、我が家から離れた所にある田んぼの突き当りの冷たい冷たい湧き水程度にもどこからも湧いて出ることはなかった。みんなきっとそうだった。

何か古い日本を、何か父や母が生きた或る時代を私達は口にしはしなかったが思うことさえ嫌だった。ずっとそうだった。私は父も母も故郷も日本もみんな嫌だった。そこに生まれて生きる自分が何より誰より疎んじたい対象だった。私達はクールなアメリカの子供だった。だがアメリカ人ではなかったし、アメリカは私達を観察してもその目はガラスの箱に入れた実験用の雌猿を見る目で、私達は彼らの手に触れることもできず、抱き締められることもなかった。

貧困は何時も私達の友人だった。あらゆることに完全を求め、足りないと思う。今でも私達は足りない世界に生きる。何が足りないのか、誰にそれを奪われ、今誰がそれを手にしているのか?12