さよならが

私は大変なことを忘れていた。山陰本線から江津で三江北線に切り替わって江川を浜原まで上る途中に川本駅がある。父は首席助役として転勤した。私も生まれて育った村を離れ、私の生まれた村よりずっと都会気分を味わえる町に移った。

島根県邑智郡川本町立川本中学校の1962年の入学式の集合写真がない。私は理由が分かっている。その当時の世界中の映画女優、映画俳優は私の顔と体を使った。彼らは私の成長期を奪った。その上、私の顔や体を使っただけではなく、臓器を抜いた可能性がある。1962年腎臓移植が初めて行われた。私は初め腎臓病だと言われ、暫くして何故か腎盂炎だと病名を変えられた。私はその年1962年の間中、そして翌1963年、3月の3学期終了まで約1年間体育の授業を放棄しなければならなかった。健康な私は体育の授業を禁止された。

これは那須野比早子の母親の病院が決めたことである。私自身は腎臓関係の病気の症状の一つ、浮腫もなく、もちろん発熱もなく、背中側の痛み(背部痛)も全くなかった。多少体がだるかったかなんかだったのか、私の訴えに、結婚前、団令子が嫁いだので有名になった京都の濱田病院で看護婦をしていたのに、病院好きではない母が心配して渋々私を那須野比早子の母親だったと思うのだが、その医師の病院というよりおそらく医院に連れて行った。その前、夏休み前までに起きたことがある。48