私の家は長く急な坂を上り切って、右手に母の作る畑と左手に元は私の家の所有だったと思われる畑で、私が物心ついてからは綿が植えてあったように思う。右手の畑が途切れた所に大きな山桃の木があり、そこに江戸時代末期から100年は経った私の家の代々の墓があった。山桃の木の手前の畑から見える大麻山と日本海と高島は、私達姉妹の夏休みの絵の題材だった。そこを私達は「そら」と呼んだ。泊りがけで勤務する父と畑や田んぼを一人で作る母が、父のいる時には二人で鍬を持ち、鎌を持った。母はそんな日機嫌がよかった、なぜか私も嬉しくて、私達はその傍らで手伝いにもならない、しかし手伝いのつもりで一緒に過ごした。
私の口の中は狭くて、私は何時までも布団の中にいたくて、何時も何時も「早く、早く、」と母に叱られた。「悦ちゃん、学校に遅れるよ、早くしなさい。」口の中のご飯を十分噛めもせずに、既に学校に出かけた姉の後を追うのではなく、私は何時も近道をした。走って走って、歩くと1時間以上かかる道を走り切った。それに暗い道、雨の後の、赤土の道なき道を滑りもせずに下って学校に行った。何かが出て来そうで、追いつかれないように時に後ろを見ては走った。途中から国道に出た。どんなにほっとしたか分からないほどの山道なのだ。しかし子供だったせいか、疲れなど知らなかった。49
コメントを残す