私はひとり嵐の中、コンクリートの斜面で崖のずうっと下の暗い海を水平線まで目で辿った。崖を上ると線路。線路はどこかに通じている、どこかに行ける、私はまだ子供でどこにも行けない。私達は不可能の中を可能に向かって遅々として歩むしかなかった。時は止まっていた。
子供が子供として歩むこと、それをマッカーサーとアメリカと国連が私達日本人にくれはした。まるでチョコレートとガムをくれたみたいに。私達日本人はチョコレートもガムもいらなかった。日本には山には山の海には海の野には野の食べ物がある。失われた誇りが欲しい、私の誇りも年々失われて行った。本当は日本の時間をアメリカより何時間かスピードを緩めて動きを緩慢にしたかっただけかも知れない。
よく脱脂粉乳は不味いとTVやラジオの中の人が言う。言い始めて何年経つと思っているのか、未だに言う。脱脂粉乳をアルミの容器で飲む、冬にはその上母達が交替で味噌汁給食を提供してくれた。コッペパンにスキムミルク、に味噌汁、美味しかった。私はスキムミルクが大好きだった。母は家でも高価なスキムミルクを買って飲ませてくれた。あんな美味しいものはない。
田舎では戦時中でも作りさえすれば食べるものはあった。上等ではないが、米も薩摩芋も。冬は床下の籾殻(もみがら)を入れたセメントの大きな囲いの中に薩摩芋を、米は普段から籾殻がついたまま俵に入れて鼠らずの中に保存した。魚や貝は海に行けばそこにいたし、売りにも来た。人は食べられるものを少しでも食べてさえいれば生きられる。7
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