さよならが

さよならがには言いたいとか言えないとか、という風なことを告げずに置くという・・いや寧ろそう書く人よりそれを読む人にいろいろ考えさせるという、ところが実は「つづく」にして置きたい。読者とは私を理解できない人のことを言い、著者は読者に理解してほしいが、私と貴方の隔たりや間隙を用意したい。

私は絨毯の下に押し込んだあの詩を忘れない。さよならはまだ好き。私は若くはないとは思うし、そう言える。しかし私は年を取ったとは言わないし、思わない。さよならを、後、何度言わなければならないのか気にはしない。私の方からさよならを言おうにも誰も私の側にいない。一人である、一人でいること、それが私の望みだった。それが叶ったが、一通の封書に入れた便せん一枚が一昨日届いた。敬老の日の紅白のまんじゅうを私には届けなかった市が、小学生を通じて「おばあさん・・・」と何度も書いてよこした。私は母が紅白のまんじゅうを貰った時一緒に食べた、美味しかった。

私達は一人にはなれないのか?一人で死んでは行けないのか?私の居場所を国や県や市が把握し、TVで匿名の、整形済み、性別不明のアナウンサーが「避難してくれ」「命を守る行動を取って下さい」と整形とは無縁の正真正銘の私の所在と生命を決定づけたがる。私は密かに一人で死にたくなった時に死のうと思っている。水辺では人は死なない、水辺で水を得て人は生き返る。私は家の中の何処か片隅で死ぬ。随分人にも逢ったが、あれは人だったのか?生まれる時には母がいた父も姉も曽おばあさんもいた。死ぬ時は一人がいい。73